友人は絵がうまい。
出展もしている。
だけど、友人は絵を額縁に入れることがない。
ちょっと前、その絵を描いている友人と額縁について話した事があった。
その友人が言うところによると、額縁さえあればどんなへたくそな絵だろうとすばらしいような絵に見えてしまうのが嫌で額縁にいれず出展しているとの事だった。
あー、なるほど。実に堅実でエゴイズムな友人らしい意見で面白かった。(褒めています)
ひとつ想像してみよう。
幼稚園児B君の描いたクレヨンの絵が、大判印刷されて駅前のポスター群のひとつとして飾られている。
同じように、くだもの缶のラベルに貼られてスーパーの売り場に並んでいる。
雑誌の表紙を飾り、本屋さんに平積みされている。
B君の絵は学術的にも美術的にもなんの価値も無いものだが、ひとつ媒体が変わるだけで受け取る側の理解が一変する。それは何も広告とかポスターとかラベルという媒体に限らない。環境をもその判断を変えてしまう。
美術館で、
お絵かき教室で、
病院で。
むしろ、媒体というよりも環境そのもののほうが強い。
友人は額縁という枠組みは拒絶したが、展示会という額縁には入れられている。もし、純粋にこの絵を見て欲しいと考えていたとするならば、残念ながら叶っている願いではないだろう。
環境という額縁はそれほど強い。だからこそうまく使えばすばらしい効果が期待できるのだが……。なんだが最近その額縁があまりにマイナス方向に使われすぎているような気がする。
その典型がブランドだ。
商品というものは基本的にブランドという額縁を背負い販売されている。時には店という額縁までしょって売られている。人はその額縁も含めて商品のよしあしを判断しているのだから、赤福や白い恋人などはなんとも言えない。
額縁は使いようによって毒にも薬にもなる。
そして額縁とはモノがこの世に出た時点で必ず付きまとう。
人にもコトにも。
友人がもし有名な画家になったら、その名前すら額縁になる。
その時友人はどするのだろうか。
KOJIさんのところからきました。
少し記事を読ませてもらいましたが、
なかなか、面白い記事をかかれてたので、
足跡を残させていただきますね。
ちなみに額縁についてですが、
仮に私がフェラーリに乗ってたとします。
すると、周りの目は、『フェラーリに乗ってるぐらいだから、
凄いやつなんじゃないか』という目で見られることでしょう。
例え私が全然凄くなくてもです。
今度は逆に私がなにか大きな事業で成功して、
フェラーリを手に入れたとします。
すると回りは、『あれだけ稼いでるんだから、
フェラーリなんだな』というような目線で見られるでしょう。
・額縁に入ってるから良い絵に見える。
・良い絵だから額縁に入っている。
これは、同じように見えて、意味合いが全然違います。
本当に、絵に自信があるのであれば、
額縁に入れることをお勧めします。
良い絵なら、きっと額縁なんかには負けませんよ。(^^)