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10.12(Sun)06:30|コメント(-)|トラックバック(-)|Top↑
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額縁の中の世界

友人は絵がうまい。
出展もしている。

だけど、友人は絵を額縁に入れることがない。

ちょっと前、その絵を描いている友人と額縁について話した事があった。
その友人が言うところによると、額縁さえあればどんなへたくそな絵だろうとすばらしいような絵に見えてしまうのが嫌で額縁にいれず出展しているとの事だった。

あー、なるほど。実に堅実でエゴイズムな友人らしい意見で面白かった。(褒めています)

ひとつ想像してみよう。
幼稚園児B君の描いたクレヨンの絵が、大判印刷されて駅前のポスター群のひとつとして飾られている。

同じように、くだもの缶のラベルに貼られてスーパーの売り場に並んでいる。

雑誌の表紙を飾り、本屋さんに平積みされている。

B君の絵は学術的にも美術的にもなんの価値も無いものだが、ひとつ媒体が変わるだけで受け取る側の理解が一変する。それは何も広告とかポスターとかラベルという媒体に限らない。環境をもその判断を変えてしまう。

美術館で、

お絵かき教室で、

病院で。

むしろ、媒体というよりも環境そのもののほうが強い。
友人は額縁という枠組みは拒絶したが、展示会という額縁には入れられている。もし、純粋にこの絵を見て欲しいと考えていたとするならば、残念ながら叶っている願いではないだろう。

環境という額縁はそれほど強い。だからこそうまく使えばすばらしい効果が期待できるのだが……。なんだが最近その額縁があまりにマイナス方向に使われすぎているような気がする。

その典型がブランドだ。

商品というものは基本的にブランドという額縁を背負い販売されている。時には店という額縁までしょって売られている。人はその額縁も含めて商品のよしあしを判断しているのだから、赤福や白い恋人などはなんとも言えない。

額縁は使いようによって毒にも薬にもなる。
そして額縁とはモノがこの世に出た時点で必ず付きまとう。
人にもコトにも。

友人がもし有名な画家になったら、その名前すら額縁になる。
その時友人はどするのだろうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.30(Sun)01:01コメント(4)トラックバック(0)Top↑
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webデザインの警鐘

■ Web屋さんって何をつくるお仕事なんですか? その職業の方は必要なスキルが多いんですか?:DESIGN IT! w/LOVE

■ WEB業界の人が、今更WEB屋になに作ってるんですか?というのは何事*ホームページを作る人のネタ帳

webデザイン関係の方々のブログでなにやら熱い議論がなされているようなのですが、さてさてこれが私の今まで抱いていた疑問を一掃してくれたのでよかった。

くわしい話はかなーり長いので省きますが、私も感じたところは違えど、感じたものは同じで。話の流れがわかりやすいのはこのブログでしたので、こちらで。
■ 情報デザイン勉強部屋 情報デザインは誰がやる?。


さて。

ホームページを作る人のネタ帳さんのエントリーを見ていて思うのが、


なぜ、webサイトを製作するためにまず技術なのか?
(この技術とはフォトショップやプログラミングだけでなく、今まで作られてきた手法、SNSやブログなども含みます)

技術は確かに物事のできる幅を広げます。だけど、デザイナーが見るべき枠組みはその技術で制限されている枠組みから探すようなことではないはずです。私たちは何をしたいかを明確化して、その何かに対して技術を合わせるはずです。

技術は道具です。

道具は人の手を延長させますが、私たちは道具に縛られて生きているわけではない。

webなんて便利なものがあるから作ろう、でwebは始まっているのではないはずです。
フォトショップがあるから、こうゆうものを作ろうでは無い。

「こうゆうもの」を作りたいからフォトショップを使おう。
「こうゆうこと」をしたいからwebがちょうどいい。

デザイナーは「こうゆうこと、もの」も考えられる人

ホームページを作る人のネタ帳さんはそこを教えてくれない。

webデザイナーはお客さんがwebを必要としているかどうかまず判断しなければいけないはずなのだ。お客さんが何を目的とし、それを達成するにはどのような戦略を行うべきなのか。

佐藤可士和さんがいいことを言ってくれていました。
「デザイナーはお医者さんである」と。
患者が風邪といったから、風邪薬を出すのではない。その人の病状、状態を診察、判断して、最善の処置で直す。

デザイナーというものを勘違いしないでください。
デザイナーは絵を描ける技術を持った人ではない。
デザイナーはいいレイアウトをする技術を持った人ではない。
こんなwebを作れといわれて、仕様書を渡されれば、プログラマーなら誰でもできる。

目的のために、さまざまな思索をめぐらせ、適したカタチで実現することができる人。


だからこそ、hirokiさんは車や家というたとえを持ち出した。

ビジュアルデザインをやる人だからといって、絵を描くこと知ってればいいわけではない。むしろそれだけの人をデザイナーとは言いません。多種多様なクライアントが存在する以上、家のことも車のことも知らなければいけない。
そこでどうデザインが実在し、機能しているか。


はっきり言いましょう。

企業側は「御社の365日働き続ける営業マン」など求めていない。ユーザーも求めていない。

webをそんな枠組みの中に限定しないでください。

SNS、ニュースサイト、そんなありふれたものではないです。

もっといい薬があるはずです。
そのもっといい薬の実現のために技術があるはずです。

だけど、その薬を見つけることができるのは、思考だけです。



プログラムもフォトショップも道具に過ぎません。道具は何も作ってはくれない。人がはっきりとした目的を持って、はじめて実現される。

だから問うのでしょう。
webデザイナーはこれから何を作るのか、と。

ひとつ思うのは、webデザインをしていた人が、webしかできないというような状況を作ってはいけない、ということ。デザイン活動というのは、人間を根本としているものだから、途方も無いくらい他業種に応用できる力を秘めている。
それが、私はプログラムしかできません。フォトショップでこんなことしかできません。では話にならない。

私もこの話題にかかわった身としてこの問いに答えてみたいと思います。

でもこの問いにたぶん明確な答えはなく、あえて言うなら

「この問いを持ち続けることがひとつの回答」なのではないでしょうか。


3:38 ちょっと修正
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.28(Fri)03:07コメント(0)トラックバック(2)Top↑
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名づけ行為とデザイン

日本酒には暖めて出すという、世界の中でも珍しい(らしい)文化があるのですが、なんと熱燗以外にも日本酒の暖かさにはレベルがあったのだと、今日の新聞に載っていて興味をひかれました。

お燗には30度から5度刻みで異なる呼称が6つもあるそうで。
日本酒を温めたものといえば「熱燗」だけしか知らなかった、もとい熱燗の存在しか知らなかった私からするとなんともびっくりな話なのです。
名前は温度の低いほうから順に日なた燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、飛び切り燗とあるとのこと。

しかも熱燗よりも人肌燗で飲むほうが通好みでうまいらしい。

それじゃあなんで熱燗しかお店にはないんだ?(私が知らないだけ?)

さて、本題。

日本酒における熱さのレベルだけでなく、物事にはレベルで名前が変わるものが多数存在します。
身の回りにおいても、甘口、中辛、大辛、激辛のような大きさ名称から、ミディアム、レア、みたいな180度名前の変わってしまうもの、木、林、森のような量の増えるもの。
数値上のものさしではなく、人間上のものさしですね。絶対値と相対値。
1,2,3が数値的レベル、大、中、小が人間的レベル。
(基本的にこの人間レベルのようなものに数値的絶対値というものは存在せず、あくまで人間的主観のみによって測られるものというのが原則なのですが、化学だろうと物理学だろうと人間の目に見える範囲が絶対値みたいなもので、数列といっても人間のわかるレベルに直したものにすぎず、2進数と10進数みたいな違いでしかありません。尺貫法が人間の身体から来ているのと同じですね。なのでここで話す人間レベルとはあくまで人間の理解レベルの話です。3以上の数値を一瞬で把握できないような)
人間はそんな自分の身の回りに起こる事細かな事象を人間レベルで区別するために数字よりわかりやすい名前をつけます。

また比喩、暗喩表現も人間レベルに直したものです。
これは熱燗の話に近いものですね。温度を人肌などに例えることで理解しやすくしています。

もうひとつ日本には特別にもう一つ物事の人間レベルで言葉化をできるものが存在します。
オノマトペ。擬音語(擬声語、擬態語)ですね。でも、これは数値を人間レベルに直すというよりは、大きい枠組みを人間レベルに細分化するものと捉えたほうがいい気がします。
たとえば一口にやわらかさを表現するオノマトペを探しても、ふわふわ、ぷにぷに、ふかふか、もふもふ、などさまざまな表現が可能です。でもその表現ひとつひとつに人間の感覚に訴えかけられるレベルの区別が存在します。ふわふわクッション、ふかふか毛布、ぷにぷに人肌のような。

そのような細かな素材感、テクスチャをオノマトペは表現でき、伝えることができる。


この3つの名づけるという行為、ここがデザインにとって重要ではないかと最近思うところで。人間が理解しにくい大きいもの、見づらい小さいものを、人間レベルにわかりやすいように翻訳する。
さて、どのように翻訳するのか。
それこそまさにデザイン。


この記事を書いているときちょうどいい記事を見つけました。
■ となりのインテリア テトリスのようなキッチンタイマー。 amadana(アマダナ) キッチンタイマー
砂時計も時間の翻訳ですが、これはテトリスを用いてタイムアップに重きを置いたような時間の翻訳ですね。テトリスを知っている人のみに対象は限定されてしまうでしょうが、そのような前例が存在するのであれば、一瞬で人間レベルの時間を計測することができる見事な翻訳だと思います。
ブロック(時)が降り積もっていくという演出もタイマーとしての機能と重なって面白いニュアンスを生み出していますね。


アナログ時計で見えていたものがデジタル時計で見えなくなる、というのはよく聞くお話で。情報化社会という実に数値的な社会に、なんとか人間レベルに翻訳しようとがんばっているのが今のデザインというものなのかと思うしだいなのです。

スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.25(Tue)04:40コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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星のデザイン

ライトは何をデザインしているかといえば、光のデザインで。
やっていることは太陽と同じことなんですよね。

もうすぐクリスマスの中、街を彩っているクリスマスのイルミネーションは、星々のきらめきをデザインしていると考えると、にぎやかな反面なんだか悲しくなってしまいます。

街は星々のきらめきでいっぱいなのに、もともとの居場所には星一つ見えないんです。


人は失ってしまった星々のきらめきをもとめて、街を飾ったのでしょうか。
現代の真っ黒な空を嫌がって。


……


デザインを考える上でよく気になるのは自然と技術の折り合いで。
道具は人の行動範囲を広げたけど、人の限界は広げていない。

電気があれば夜は越せるけど、眠気は越せない。
太陽光に近いライトはとてもいいと思うけど、太陽光なしにたぶん人は生きられない。

MONGOOSE STUDIO | 日の射す窓辺を心に描く Bright Blind

このライトはすばらしいデザインだと思うのだけど
これを必要とするような環境はたぶん、とても嫌な環境ではないだろうか。

自然をデザインするなんておこがましいとまでは言わない。

だけど、便利すぎる世の中は確実に自然をデザインしていたのではないか。
ライトは太陽を。メールはコミュニケーションを。ストーブは火を。ゲームは体験を。

最近のプロダクトは人間が人間であるためにデザインされているのかもしれない。
深沢直人のケータイは人間の残した痕跡を元にカタチを決めていた。
上のライトだってそうだ。

使いやすい。簡単。便利。楽ちん。速い。安い。

でも、そこで失ってしまった何か、ぽっかりと空いてしまった穴を埋めるためにデザインはあるのだろうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.21(Fri)04:17コメント(1)トラックバック(0)Top↑
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正しい知識と正しそうな知識

前記事にNATROMさんからコメントがあり、普通にコメントを返信しようと思ったらなんだか興味深いことにつながっていそうなので、記事としてとりあげてみます。

NATROMさんのコメント
本当に、最近はめんどくさい世の中になりましたよねえ。臨床の現場でもリスクや安全性について、お互い望んでいないような詳細な説明が必要になりました。

実はですね、献血が安全だなんて自明なことだと思っていたのですよ。ぶっちゃた話、こんな馬鹿が存在するとは思わなかったレベル。おそらく宣伝したところで彼らには届かないと思います。「安全だ」などと宣伝したらしたで、かえって怪しむ連中だっているでしょう。彼らは単に馬鹿なだけで、本当は安全性なんか気にしちゃいないのじゃないか。安全を求めるのなら、正しい知識を得る努力をするはずです。



確かに私も、「安全だ」などと伝えたところで、ターゲットには届かないと思います。
でも、正しい知識を得る、というところは少し疑問です。

なぜいま両者も望まないような詳細な説明が必要になったのか。
とりあえず医療ミスが根本の原因としておくと、患者は医者がよい医者か悪い医者か判断しなければいけないと思ってしまう。そこで正しい知識を持っているような安全な医者かどうか説明を聞いて判断する。

でも、その説明を聞いてよき理解が得られる人が何人居るのでしょうか。
私が昔かかった溶連菌感染症とか変な名前とか医学用語をならべられても、医者じゃない人はまるでお手上げ。
では、なぜそんなわけのわからない説明を聞いて判断するのか。

極論してしまえば正しい説明など必要ない。その説明、説得を聞くことで安心を得られるということが大事なのでしょう。
ようは正しいか正しくないかではなく、正しそうか、正しくなさそうか。
そこが判断の焦点になっているのではないかと思うのです。

プレゼンと一緒で、いくらプレゼン内容が正しかろうと、プレゼンする人が自信なくプレゼンしていれば、それは正しくなさそうな情報に見えてしまう。

情報公開は、情報公開の事実、つまり事実の広告性が役立つのであって、実際公開している情報を扱うのはほんの一握りなのでしょう。

そう考えると一番問題なのは医療ミスや血液感染の恐れがあるというマスメディアの情報公開であって、安全なのに安全じゃなさそうな状態にさらされている現場は被害者なのではないか。
もちろん、伝える努力は大事とは言っても、マスメディアにプレゼン能力でかなうはずもなく、さらに消費者は「安全」よりも「安全じゃない」という広告に食いつきやすい。

まさに負のスパイラル。
しかも献血という生きているうえでは必要の無いボランティア活動になってしまったら……。

じゃあどうするか。
NATROMさんの言うとおり、「安全」の宣伝じゃ効果はきっとありません。
言葉のあやと言われるかもしれないですが「安全」の説得、説明、プレゼンしなければいけないのでしょう。

(となると、前回の記事タイトル「安全という広告」は間違ってますね……。伝えたいことは一応一緒なのですが。)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.01(Sat)12:22コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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