» HOME  » RSS  » ADMIN
dot1 dot1

スポンサーサイト

10.12(Sun)06:31|コメント(-)|トラックバック(-)|Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

安全という広告

■ 若者の献血離れが深刻 - NATROMの日記

安全、……か。

実は私も献血をしたことがない。
別に献血がきらいとか、ボランティアが嫌いとか、偏見があるから、とかそーゆーことではなく、ただ自然にしたことがなかっただけで。献血といわれてもいまいちピンとこないというのが正直な感想。

私のことはさておき。

上の記事では若者(正しくは痛いニュースのコメント)に根付いている献血に対する無知や僻み、偏見への反論が主なのだけど。NATROMさんの言うとおり、献血は安全で、しかもそれを運営している会社も大変なのだろう。でも、残念ながら若者には伝わっていない。

ドラマや漫画でも医療や輸血をめぐったものはおおいし、若者にも結構な認知度があるのは確か。想像ではあるけれど、条件が合えば献血したいという人は結構多いのではないだろうか。でも、残念ながら安全かどうかがわからない。


なんでそんなに安全かどうか疑ってかかるのか。

なんでって、そりゃあ……

今の時代は「安全ですよ」と声を大にして言わなければ、安全と認識されない時代だからではないか。

白い○人しかり、ミー○ホープしかり、お医者さんもお役所さんも、はてはあやしい金融さんも安全性うんぬんをうたう時代。(実際安全かどうかはおいといて)
そこらのスーパーも原産地をあらわにしたり、賞味期限を気にしたりしているのに、献血はまるで安全性をうたっていない。

もちろん、WEBサイトにはNATROMさんが書いていることが、しっかりと明記されている。
でも、これは明記されているとかそうゆう問題じゃなく、届いているかどうかの問題。

若者が何を心配し、何で安全を確認したがるのか。
そしてどう安全を確認しているのか。

そこを捉えて、伝えていかなければいけない。


しかしまぁ、最近本当にめんどくさい世の中になったなぁと思う。(いや、まだ20代そこらだけど)

昔は安全なんて信頼でことたりた気がする。

お母さんの行っているお医者さんはいいお医者さんだった。
お父さんの行っているお寿司屋さんはいいお寿司屋さんだった。
友達の友達はいい友達だった……かな。

まあ、とりあえずそれだけでよかった。

いや、今でもその風潮は残っていると思うけど、情報がどんどん増えていって、あふれかえって、信頼できるのが誰なのかなんなのかわからなくなって、とりあえず目に付いて安全そうなのが安全だと思える時代になっているのかもしれない。
みんな広告(ブログや口コミ、ニュースなども交えたもの)をたよりにしている。
自分に届いていない「安全」は「危険」

伝えることは大切だと思う。伝えなければいけないとも思う。
だけど、伝えなければいけなくなったというのは、なんだか悲しい。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.29(Thu)14:28コメント(1)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

重力のデザイン

■ ついにレコードの時代が終わる - ココロ社

結論から言ってしまうと、小型化からデータ化へと時代は移ってきています。それつまり重力からの開放。

小型化という概念が無かった(?)であろう時代にあったレコードがついに終わるだなんて、CDも過ぎて、PCで音楽を聴いているファミコンすらやったことの無い私には、実に遠く時代遅れのように感じてしまう話なのですが。CDすらデータミュージックに株を取られつつある時代ゆえになにか感じるところが多かったのでこのニュースを紹介。


データ化することで、音楽はさまざまな制約から解放され

そしてさまざまな制約を生み、何かを失いました。


ここで、いくつか興味深い事例をあげてみたいとおもいます。


紹介している記事で、最後のほうに興味深い話が書かれていました。
>でも、個人的には、重いレコード袋を持って「今日は買い過ぎちゃったなぁ…」っていうのを四半世紀も続けてきたので、寂しいですね。

ゲーム脳批判ではないのですが、ボタンで人を殺す感触と、実際に人を殺す感触は想像に難くなくぜんぜん違います。そしてそれに対する、感情も。

そういえば、昔の記事に対価のデザインというのを書いていました。
WEBマネーを使ったときの実感と、実際の金銭を用いたときの実感の違いをつづった記事です。このあたりの私の危機感も昔から変わっていないようです。

最近見つけた面白いサービス新潮文庫の100冊 2007では、自分が気に入った本をWEB上の本棚にいれることができます。

最近のネット上の本やPDFにはページをめくるアニメーションがあります。

……

ネット上で何かがずれてきています。
正しくはネット上と現実の交わる界面(UIではない。だけどUIに近いどこか)で。

メールで話をしているのに実際にあって話したくなるような。
ネット上の友達どうしで、OFF会を開きたくなるような。
ひとりでいたいといっていた人が、ネットゲームをやっているような。
ひとりごとをブログに書くような。

MORI LOG ACADEMY: 大勢で見る
という記事がすごく面白いことを書いていました。
>臨場感という言葉で表されるものは、映像や音の質だけではない。場の雰囲気の大部分は、自分のほかにも同じことをしている(あるいは感じている)人間がいる、という感覚だ。同時であり、同所であるがゆえに感じやすい。この感覚は、たぶん人間が「群れ」をなそうとする習性に根づいているものだろう。見て、聴いて、感動している自分を、同じものを見て、聴いて感動しているだろう他人と比較して、確認したいのだ。一緒に楽しみ、一緒に笑いたい。
 この傾向は、インターネットでも随所に見られる。プライベートが基本の世界なのに、「一緒にいたい」気持ちがそこかしこに現れていて、掲示板やブログでも周囲を気にしている人たちが大勢観察できる。おそらく、20世紀後半のプライベートな文化の反動として、また群れをなしたい心理の再燃が今のムーブメントなのだろう。


プライベートな文化だけじゃない。
今私たちが欲しているのは、リアルではないか。
重力からの開放という利便性を求めていたのに、裏では重力を失うむなしさに確かに気づいていた。

5.1チャンネルサウンドは確かにリアルなサウンドだけど、においや温度までは感じられない。なのに、買う人は途絶えない。
文字は声じゃないのに、絵文字は顔じゃないのに、私たちはそこに人がいると感じてしまう。

この記事を書いていて思いました。
これは、何かが「くる」なと。
いや、すでに、すでに何かきている。
むしろ私は気づくのに遅すぎた。
昔の記事で私がすでに感じ、記していたのに。

危険なものか、いいものかは私に判断がつけられない。


ただ、新しいデザイン対象であるということだけはわかる。
mixiやニコニコ動画が流行したように、これから新しいサービスが、デザインが次々と生まれてくる。それは絶対web2.0じゃない。web3.0というのにも語弊がある。
新しいデザインの波はwebという世界で終わらないだろう。(そう考えるとひろゆきが言っていた、ニコニコ動画がテレビに勝てない理由に合点がいく)

webと重力を交えた新しいデザインがこれから出てくる。

そこで、HP作成をレベルアップさせたようなwebデザイナーの半分以上が消え去るのではないか。


上を向け。私が見るべきは地面じゃない。地平線をみろ。
(自分への戒めをこめて。)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.24(Sat)21:10コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

グラフィックの仕事

■ ダビンチが絵に音楽隠す? イタリアの音楽家が新説 - MSN産経ニュース

上記のニュースが面白かったのでちょっと紹介。
レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作といわれている「最後の晩餐」に実は楽譜が隠されていた、というイタリアの音楽家が見出した新説だそうで、はじめは「へー。よくまぁ、そんなこと考えるもんだなぁ」とか思っていたのですが。

ふと気になることがありました。
人類は生まれてから何かと外部的なものに、記録を残す癖(?)みたいなものがありますよね。それは見たものだけでなく今回のような音楽や歌、といった形の無いものも。
人間の想像力によって具象化したものから、記録伝達を主とした記号的な形でも人は残してます。(前者は印象派、後者は写実主義と言い換えることもできるかも)

音楽や歌だけではありません。人が感じた空気、感情、味、気温、匂いもそう。
五感や心で感じたものを、人間は何かと表現し、伝える。

ただそこに、伝えるため、意思疎通を図るためのなんらかの意匠がほどこされている。音楽なら楽譜にしたり、感情なら絵文字にしたり。名称をつけるのもそのひとつの手法でしょう。

グラフィックデザインで必要なのはまさにそこで、実は私たち人が積み重ねてきた膨大な知識、知恵を元に仕事をしているのだと思うと、すんげーーーーーーーーーーーーーースケールの大きい仕事だなぁ、とこの文章を書きながら改めて思ってしまいました。


話は戻って、音楽説が正しかろうと、正しくなかろうと、最後の晩餐はいったいどんなデザインがなされていたんでしょうか。気になるところです。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.18(Sun)20:38コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5