» HOME  » RSS  » ADMIN
dot1 dot1

スポンサーサイト

10.12(Sun)06:27|コメント(-)|トラックバック(-)|Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

孫ニュースと孫ニュース

コデラ ノブログ: 何様 [ITmedia +D Blog]
歌う脳髄 - 我ながらド厨房だと思う雑記

はっ、と気づかされたというのが正直な意見。んでもってちょっと不思議。

私のブログはニュースの部分だけ取り上げるなら、上記の記事で述べられている孫ニュースサイトに当てはまります。さらに言わせてもらえば、前にも孫ニュースブログを少しの間やっていました。

けれど、独自収集系ニュースサイトに対する罪悪感とかそーゆー類のものは一切無く、そもそも孫ニュースサイトを始めたきっかけは、情報を自分のモノにする(話のネタにするために自分に植え付ける)という実感を得ることと、自分のほしい情報をまとめて閲覧しやすくするという、読者なんてクソ食らえ的な(ちと言いすぎだけど)自分主義的なところが多かったりします。

あ、ちょっと補足。
今のブログは一応独自報収集と孫ニュースの半々です。しっかりとデザイン系のネタを以降出していきます。現在フォトショTipsまとめ作成中。
(まあ、自己保身の補足ですがー)

で、今回のことについて何が言いたいかと言いますと。
記事のリンク貼っただけの孫ニュースってこれからどうなるのさ、ってことで。

日本人は往々にしてゴシップネタが好きですね。そうじゃなきゃ週刊ナントカとかが売れたり芸能人の結婚ひとつで大騒ぎしたりしません。

んで、ゴシップというのは情報の正確さ以上に速さが、それと同じくらいかそれ以上に面白さが求められます。

孫ニュースというのはゴシップ記事(独自収集ニュースサイト)を見た噂好きな近所のおばさんに当てはまるわけで、でもニュースサイトの世界って言うのは近所のおばさんに会うよりもゴシップ記事が目に付きやすいんですよね。これだけニュースサイトがあふれかえっている状況なので。

ニュースサイトをひとつ知ると、ほかのニュースサイトを知る可能性が高いです。
ネット巡回というのは一定時間の間に済まされると思いますが、それじゃあ人はおのずとゴシップの条件(正確さ<速さ≦面白さ)を満たすサイトを求めるはずなのでー。

結局、独自収集系ニュースサイトに閲覧者というのは帰るのではないか。
そんな気がするのです。

それじゃあ、アクセス数を求めた孫ニュースサイトはどうなるか。
たぶん、他のサイトをまねたサイトや、独自のものを求めなかったサイトと同じ末路をたどるのだろう、と勝手に予測。

私のサイトは、ランキングで上位に来たいがために運営しているわけでも、アフェリでお金がほしくてやっているわけでもないです。だから孫ニュースサイトを経営していても苦になりませんし、孫ニュースサイトだけでやっていくつもりもありません。

でも、今回この記事を見だことで、せめて情報元のサイト様へのリンクはしっかりと貼ろうと、感謝しようと思った。

とは言ったものの、このブログ始めてまだ2日目! 説得力が無い!
コラム02.19(Sun)01:36コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

情報、広告、形……

「必要な情報をどう届けるかという事の見極め」の重要さ ひとりごと/ウェブリブログ
> 一軒家@メモ帳

一ニュース記事として紹介しようと思っていたが、読めば読むほどその内容の奥深さに感嘆と同意の気持ちがこみ上げてきたので、自分の思ったことについても書きたくなった。

上の記事のは情報の伝達が中心に述べられているが、私が興味をそそられたのは後半部分。
初心者に対する情報の伝え方。デザインとして捕らえるならば、情報の形成の仕方と言ったほうが判り易いだろうか。

例えば情報の部分を広告に置き換えてみる。
広告の意図を伝えるターゲット層は広告にもよるがある程度絞れるものだ。しかし、その広告を見るのはWEB上と同じように不特定多数の人たちだ。必ずしもメインターゲットだけが閲覧する広告などは有り得ないと言っていいだろう。

なんだか広告企業とかが宣伝しているように、広告というのはメインターゲット以外の人が見た場合のことも考えなければならない。しかし、だからといってメインターゲットに対する広告効果が失われてしまえば本末転倒。記事に書かれている初心者配慮と同じ結末をたどることになる。

では、情報の形成、広告はどのように作るべきか。

たぶん、その答えは上の記事の結末と同じなのだろう。

誰がその情報を求めていて、そしてそれを私がどう届けるか……その見極めをする事で、この二つの文章に書かれている内容を矛盾無く実現出来るのではないかと思う。
でも、私はきっと正しいといえる答えを出せない。いつも矛盾にぶつかって、悩むと思う。それでも、悩んで悩んで矛盾しながら、その場しのぎでも、なんとかしていくのだろう。そんな気がする。


よくよく見直してみると、上の文章は記事の情報の部分を広告におきなおしたものでしかないのだけれど、こうゆう考え方も重要かなぁと思ってみたりする。
……やっぱり矛盾。
コラム02.20(Mon)03:50コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

イタリアのデザイン雑誌「Ottagono」

ottagono

そろそろ、ニュースサイトと名乗っているのが恥ずかしくなってきた気がしないでもない今日この頃。今回は、さらにニュースとは離れて、イタリアのデザイン雑誌「Ottagono」の紹介です。ちなみに、これは買ったものではなく、大学の図書館から借りてきたもの。上の表紙に生々しい判子の跡が。

気を取り直して。

「Ottagono」とは
■ 外国雑誌リスト によると、
イタリアの建築・デザイン雑誌。Ottagonoとは、イタリア語で八角形を意味する。建築、プロダクトデザイン、インテリアなどの最新動向を紹介するデザイン専門誌。

一応何冊か読んでいるんですが、今更になってグーグル先生からイタリア雑誌だということを教わってしまいました。どおりでまるで読めないはずですね!

さて、肝心の中身の紹介。まず今回借りてきたOttagonoは「no.186 2005年12月号と2006年1月号の合併号」。色々と紹介したいモノは多いのですが、今回はワイングラス特集をしていたのでそこに的を絞ってみました。気が向いたら、また別のものを紹介します。
(ちなみに、文章が読めないため、アイディアは全部憶測で言っています。こうなんじゃねーの? こっちが正しいんだぞー、という情報はコメントお願いします。)

CA320019.jpg

これは、グラスの底にベルの仕組みを導入したと思われるもの。
グラスといえばパーティでよく使われるもの、パーティの楽しさを盛り上げるいいアイディアじゃないでしょうかー。またアイディアもさることながら、グラスの造形と持ち方にも着目し、ベルと融合しているところも感心させられてしまいます。

ちなみに、音を利用したグラスはもう一つありまして。
CA320024.jpg

イラストによるコンセプトですが、こちらはよく子供のころに遊んだグラス叩きの遊びと思わず重ねてしまう楽しさあふれるアイディア。
先ほどの作品とは違うこの面白いところは、乾杯するときにグラスを合わせることで音が鳴る、というコミュニケーションに着目した点じゃないでしょうか。いろんな人とグラスを合わせるたびに、違う音がする。違う印象があり、違う反応が得られる。
乾杯するのが楽しくなる、まさにパーティのためのグラス。

お次は、こちらもパーティ用ですが変わった形のグラス。
CA320023.jpg

使わないときでも十分インテリアとして機能しそうなこのグラスは全部で8つ(?)のグラスの集まりでできており、口が3角形で花びらのような形をしています。
写真左のイラスト(見づらいですが)では、乾杯のときの混雑さの問題が表されており、その解消のためにこのような形になった、という風な? ことが描かれています。確かに丸いグラスは結構な面積を占めますし、大勢で乾杯をするとなかなか大変ですよねー。
ちょっとした、だけど大切な乾杯を安心して楽しくさせてくれるアイディア。また、造形だけでなく、ちゃんと飲みやすいように三角形の一辺に緩やかなカーブをつけているところも、なかなかな心配りじゃないでしょうか。

お次は面白アイディア紙コップグラス(?)
CA320025.jpg

紙コップにグラスのイラストシールを貼り付けて、グラスっぽくしてしまうという、なんとも面白おかしいアイディア。でも、イメージ写真を見ると、なんとも感心させられてしまいます。なんとまあ、電車などよく揺れるところでも雰囲気を出しながら飲めるようにということをコンセプトに作ったのでしょう。確かに、グラスじゃあそんな不安定なところでは使いづらいですし、そもそも持っていかないですよね。
いつでも、どこでも、手軽に、雰囲気を。これなら、キャンプに行って星を眺めながら……なんてこともいいですねー。
面白おかしくも、バカにできないです。

でも最後は……明らかに面白おかしいネタモノグラスを紹介。
CA320020.jpg

もう、言わずもがた……ですねー。
でも、ちゃんと普通のグラスとしても使える(?)というのは、2面性のあるプロダクトとして大事なところじゃないでしょうか。グラスという静かに飲むものとしてのメタファーが、このギャップを生むからこそ成り立つ面白さですし。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム02.04(Sun)19:05コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

能動的に見る広告

広告って、基本的に受動的なモノだ。
ターゲットが「見たいから見る」なんていう広告の名のつくものはかなり少ない。強いてあげれば、googleの検索広告くらいしか思い浮かばない。受動的なものだから、CMなどに慣れてしまった最近の消費者は、広告という刺激的なものを見ながらも、ほとんどが何も感じない。

先週あたりに、「地域産業と中小企業のデザイン戦略」というような(うろ覚え)タイトルの講演会に行った来た。そのとき、印象に残った広告戦略の話がある。
その話をしてくれた人は、とあるデザイン系会社・商品のプロモーションを行ったのだけれど、その手法が能動的に見ることができる広告だった。

実際に何をしたのかといえば、ただマスコミ・雑誌・業界関係者などに向けて「発表会」を行っただけという、聞くだけならば広告には程遠いものだった。だけど、効果はその辺のTVCMや雑誌広告よりも、刺激的で印象的なものだと(実際に生のメディアで見たわけではないが)思う。

発表会を行った後日、その商品や会社が発表会に来ていた雑誌関係者の手によって、デザイン関係雑誌の記事にされていた。もし自分がその雑誌を買っていたら、その辺の雑誌広告よりも能動的にその記事を読んだだろう。

ここで、一つ自分は広告というものの誤解に気づいた。広告というとどうしても、雑誌余白を埋めるようなの一ページや、駅の構内に漠然と張られているポスター、TVの穴埋めをするように流れてくるフィルムみたいなものだと知らず知らずのうちにとらわれていた。いや、もちろんそれはれっきとした広告という名のつくものなのだけれど。

だけど、広告って「消費者に情報を伝える」ということが若干意味は違えど目的で、それを考えるなら手法は違えど雑誌の一記事も広告となんら変わりは無い。そう考えれば新聞だって、政治の状況を伝える広告であり、テレビ欄もテレビCMと大差無い。

むしろ、人が求めているか求めていないか、広告主が能動的か受動的かの違いだけのように感じる。

効果はあるのだけれど、しかしまぁなんというか皮肉的だなぁと。広告会社でその道のプロが躍起になって作ったものには目もくれず、広告とは専門外の人がターゲットにより強く影響を与える。
もちろん、広告なんてそうそう誰もが見るもんじゃないとは思っているけれど。

……雑誌は広告を載せるから資金をください、よりも記事を書くから資金をくださいのほうがマシなんじゃね? と思ったり。まあ、報道の自由とかその辺は置いておいて。


しかしまぁ、そう考えるとエンターテイメントに徹した広告はある意味正しいものだなぁと思えてくる今日この頃。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム03.06(Tue)21:17コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

WEBには無いWEBデザインのネタ

sss




最近よく見かける「〜ための○個の法則」だったり、WEB2.0なアイコンの作り方とかのTips系WEBデザイン記事に疑問を覚えたので、自分が欲しいと思うWEBデザインのための記事を書いてみようと思う。

上の写真は私が実際に撮影したもので、どこかの動物園の自動販売機です。
見ればわかるとおり、缶コーヒーのパッケージが傾いている。他の缶は騒然と規則正しく並べられているのだけれど、ここだけ何か台風でもあったかのように崩れていて、見る人の視線をいやおう無しにひきつける。
自販機おいての競争力はパッケージのみと考えられるのが一般的だけれど、ここは秩序を崩したどこにでもあるパッケージの缶が一番目を引いていた。

で、この現象を簡略化すると、アクセントというコトバに集約されると思う。

リズムよく配置されたものの中に、リズムを壊すものが存在する。
緑の中に在る一輪の花のように、そこはよくも悪くも人をひきつける。
そして、このような現象は日常の中にいくらでも転がっている。

本屋さんで、騒然と並べられた雑誌の中にちょっとだけ斜めにずれた本を見つけたことは無いだろうか。あるいは街中を歩いているときに、背が高い人、赤い服を着た人、勧誘のために仮装した人、が目に留まったことは誰にでもあるはず。

もちろん、それらの現象はもともと目立つ要素を秘めているけれど、花束の中での一輪の花だったら、「花束の中の花」としか認識されないし、パーティ会場では赤い服の人は目立たない可能性がある。

大事なのは秩序が存在するから混乱が起きるということ。
目立つというのは、環境があって初めて成立するということ。

とゆーわけで、デザインのネタはほんと些細な日常の中に転がっていて、それをデザインとみなすか否か、知識があるかどうかで、変わってくるものですね。
Tipsは答えばかりが載っていて、面白くないんですよね……。疑問を持ち、それが解決できて、感動する、っていう過程が無いから。キレイとかかわいいとかカッコイイものばかりじゃなく、面白いモノを見たいところ。

(いつも、ぼーっと頭の中に思い浮かべていた言葉だけれど、こうして文章にしてみるとまた面白い発見があるなぁ……)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム04.24(Tue)02:10コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

跡のデザイン

あsdf


雪道では、前の人が通った足跡をなぞるように歩くことたびたびある。
雪国に住んだことがある人なら、きっと経験がある話だろう。

なんでか? って考えれば、簡単に答えの出る話ではあるが、ずばり「通りやすいから」に他ならない。

まだ、何も踏み荒らされていない雪道を歩いていくのは、なかなか体力のいる話だ。雪が靴に入ることもあるし、溝が埋まっていてそこに足を踏み入れてしまうこともある。
でも、誰かの足跡があれば、それはだいたい正解の道であり、歩幅の合わなさには目をつぶるにしても、十分道しるべになってくれる。

とまあ、雪国での生活方法みたいな話ではあるけれど、本題はそこではない。

人の跡、がデザインにおいて重要ではないか、ということ。

そのいい代表例が、包丁やフライパンなどのグリップだろう。実用的ではないが、形的には拳銃のグリップが想像しやすいかもしれない。

それらは、手の形がすっぽりと納まるようにデザインされているものではあるが、その形状は粘土を掴んだ時のモノに近い。

つまり、手の跡だ。

大きさの違いはあれど、これほど手に馴染む形は無いだろ。

また、跡は何も手とか足だけではない。
ちょっと方向性は変わってしまうが、広告バナーも跡を応用したものがよく見られる。
マウスポインタのグラフィックが載っている広告バナーを見たことはないだろうか。もちろん、広告バナーなのだから、クリックすることは百も承知画も知れないが、そこがクリックするところ、と感じさせるには、それだけで十分効果があるし、誰かが押したかもしれない、という感覚が芽生えるかもしれない。(さすがにその辺は憶測)

また、伊東豊雄の建築の一つにようかんをスプーンですくった跡みたいな形の建築がある。(たしか、関東のコンサートホールだったはず)
人の手が加わったその不思議な形は、有機的なのだけれど、どこかそのコトバが似つかわしくない、もっと人に近いにおいがする。

やはりそこには足跡同様、人の跡が印象を大きく左右しているのではないだろうか。これが、PCなどで適当に造形したものだったら、このようなものにはならなかったはず。

足跡や手形とはまた違ったモノだけど、これも跡のデザインの一つ。

で、色々と跡のデザインの話をしてみたのだけれど、このことを考えてみると、前のエントリー同様、日常には山ほどデザイン要素が隠れていることが見えてくる。
私もようかんの話を聞いた後は、おやつであるプリンをすくっていると建築に見えたとか見えなかったとか。

とりあえず、今回はこの辺で。

(本当は、人による性格と跡の違いとか、モノの跡など、もっと風呂敷を広げられるのだけれど、これ以上書くと収拾がつかなくなるので……)
(そーいえば、後々アフォーダンスと跡について色々考えてみたいところ。なんか面白いことになりそう。)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム04.26(Thu)22:09コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

■ ミニマムデザイン

jhg



シンプル・イズ・ベスト
シンプルなデザイン
モダンデザイン
ミニマルデザイン

ちまたには、よくよくこんなコトバが溢れている気がします。

でも、よく思うのです。
「シンプルって何さ? ミニマム、最小最低限ってどんなさ?」

そんなあまのじゃくな疑問に対して最近考え始めた極論があります。
「人は人であるための最小の形である」

造形的に言って人間はめっちゃくっちゃ複雑な形をしているけれど、生物としてはシンプルで無駄の無い形をしています。(無駄なものは退化していきますしね)
つまり、そんな人間に合わせるために作られたデザインというならば、人間みたいに造形的に複雑な形をしていてもいーじゃないかー、ということ。

しかし、シンプルといえば大量生産のたまものみたいなもので、いい言い方をすれば平均をとって誰でも使いやすいように、悪い言い方をすれば個々によって違う人間を四角い箱に閉じ込めるような、そんな感じのもの。

人もモノも増えすぎた今の時代じゃしょーがないような、ある種時代の産物みたいなものなのでしょうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム05.08(Tue)01:29コメント(2)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

視線の強さ

私たちが日常的に見る週刊誌。
その大半が、私たちを見つめているのは、客観的に見るとすごい話だ。
ほとんどどの雑誌、ファッション誌、テレビ雑誌、ゴシップ誌、はてはコミック誌も私たちを見つめている。私たちと目を合わせ、話しかけようとするかのようにコミュニケーションをはかる。

今回はその「視線」について。

話をするとき、相手の目をしっかり見て話す人と見ないで話す人では、印象に大きく差が出る・・・・・・、というのはよくある話。

そりゃあ、面接だろうと日常会話だろうと、目を合わせないっていうのは、なんともいやなことだ。特に私はメールをしながら話を聞く人がだいっきらい。

と、自分のことはさておき、それでも目を見るというのは、一つの大きなコミュニケーションの要であるのは間違いない。

そして、目を離して話す人というのは、こちらに興味がないように思わせることの典型だ。最悪「無視」されていると思われても仕方がない。
だから「目をそらした人物」というのは雑誌におけるタブーなのか?
もちろん、詳しいことはわからない。

でも、小説や映画というメディアと対比させてみると結構面白いことが見えてくる。

雑誌というのは基本的に主人公が消費者であり、それに対し小説や映画には決まった主人公が存在している。これは、映画において主人公視点で相手と話すのと、第3者視点(カメラ視点)で主人公が相手と話す、という状況の違いに似ている。
前者では主人公の感情移入度込みでの相手との話が大事であり、後者は相手と主人公が話しているという客観的な視点が大事だ。

つまり、消費者(主人公)と表紙の人物(相手)という相互関係があるからこそ、表紙は私たちを見つめる必要があり、目をそらすということは興味をそらすことに直結する。
映画や小説は主人公が別に存在する分、ストーリーや世界観を重視したものが表紙として選ばれる。時には哀愁漂ううつむき加減の人物など。


性質上仕方がないことなのかもしれない。
でも、つまらない。
どれもこれも、私を見て! 的な表紙ばかりだと、逆になえてくるんじゃないか・・・・・・。

うつむき加減でおとなしそうな、ちょっと恥ずかしがりやさんのほうが、案外今の時代うけるんじゃないかなぁ。とどうでもいいことを考えたり。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム06.23(Sat)00:02コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

モニターの外側

watasi


 私は字を書くのが下手だ。
 字が汚い、というのもあるが、とにかくバランスが悪い。一文字一文字の間がまちまちだったり、字と字の大きさががばらばらだったり。だから、どちらかといえばPCで文章を書いているほうが、まあ……気が楽だったりする。


 さて、私はPCで(たとえばフォトショップで)文字を打つとき、とりあえず文章を打ってしまってから、大きさを変更したり、字間を調整したりすることが多い。誰かほかの人の作業を見たことがあるわけではないが、大きさや調整は後回しの人が多いと、思う。
 それが紙に鉛筆で文字を書くとなると、勝手が違う。まず、書く文字の量を考え、書く範囲、紙の大きさを見定め、文字の大きさを考え、書き始める。つまりPCとは180度違い、書くという前の想像が最初に来てしまうのだ。

 
 私が最近苦しんでいるのは、まさにそこで。
 PC慣れしすぎた私の頭に、紙の大きさや文字の間隔など、はじめから眼中に無く。それなのに頭は綺麗な字を書こうとする。
 もちろん、そんなことを考えるなんて普段字を書いているときには、まるで意識されない部分ではあるが、書道などを見ていれば、まさに私が苦しんでいる底を丹念に突き詰めて書かれているように思う。


 全体を見ながら描きなさい、とは大学の先生がよく言っていたことで、でも私は目の悪い人よろしく、目を細めながら細部へ細部へと変に細かいところに集中して、全体はいつもおろそかだ。PCの拡大機能が、自分の目のようで悲しい。



 私が見るべき部分は、モニターの外側なのに。 
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム10.22(Mon)16:34コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

グラフィックの仕事

■ ダビンチが絵に音楽隠す? イタリアの音楽家が新説 - MSN産経ニュース

上記のニュースが面白かったのでちょっと紹介。
レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作といわれている「最後の晩餐」に実は楽譜が隠されていた、というイタリアの音楽家が見出した新説だそうで、はじめは「へー。よくまぁ、そんなこと考えるもんだなぁ」とか思っていたのですが。

ふと気になることがありました。
人類は生まれてから何かと外部的なものに、記録を残す癖(?)みたいなものがありますよね。それは見たものだけでなく今回のような音楽や歌、といった形の無いものも。
人間の想像力によって具象化したものから、記録伝達を主とした記号的な形でも人は残してます。(前者は印象派、後者は写実主義と言い換えることもできるかも)

音楽や歌だけではありません。人が感じた空気、感情、味、気温、匂いもそう。
五感や心で感じたものを、人間は何かと表現し、伝える。

ただそこに、伝えるため、意思疎通を図るためのなんらかの意匠がほどこされている。音楽なら楽譜にしたり、感情なら絵文字にしたり。名称をつけるのもそのひとつの手法でしょう。

グラフィックデザインで必要なのはまさにそこで、実は私たち人が積み重ねてきた膨大な知識、知恵を元に仕事をしているのだと思うと、すんげーーーーーーーーーーーーーースケールの大きい仕事だなぁ、とこの文章を書きながら改めて思ってしまいました。


話は戻って、音楽説が正しかろうと、正しくなかろうと、最後の晩餐はいったいどんなデザインがなされていたんでしょうか。気になるところです。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.18(Sun)20:38コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5