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わからないことがわかるのではなく、わからないということがわかる

世の中、わからないことだらけだ。
何か例をあげようとしたけど、それもなんだかわけがわからなくなってしまった。

でも、まあそこが今回の問題ではないのでよしとする。

ところで、学問にせよ、科学にせよ、技術にせよ、なんにせよ、ここまで発展してきた一つのキーは、なにより疑問である。その疑問を解決するために、人はここまで発展してきたといっても過言じゃない。(むしろそのものか)

「わからない」
「なぜ」
「どうして」


私のとある友人は「わからない」「なんで?」をよく言ってくる。
でも、その友人は結構頭がいいほうなのだ。
私よりもはるかに頭がいいはずなのだ。
英語なんて、天地の差なのだけれど、友人の口癖は「なんで?」である。

どこかの国の、どこかの発明家だったか、「なんで?」が口癖の有名な人がいた記憶がある。

いつも「なんで?」「どうして?」と言っている人はとてもすごい人だ。
でも、彼らは「なんで?」「どうして?」と疑問をもつからすごいわけではないと思うのだ。
一番すごいのは、わからないということがわかる、ということだと思う。

ちょっとここであべこべになってしまうのだが、
重力を発見したニュートンはリンゴが落ちるのが「なんで?」か、ということを発見したからすごいというわけだけど、私が示したいのはリンゴが落ちるということが普通じゃないと気づいたことがすごいと言いたいのだ。

もっと身近に説明すると、最近私がしたデッサンがいい例だと思う。
石膏像をデッサンしたのだが、どこかおかしい。くびかな? 頭かな?
そのおかしいと気づく、ということが「わからない、ということがわかる」だ。

さて、なんでここまで「わからないということがわかる」を述べてきたかと言うと、今私たちの世の中は「わからないということがわかる」が結構失われているのではないか、と思うのだ。
実は「なぜ?」というのはそんなに難しいものではない。
もうすでに問題があれば、人は誰しも疑問を抱く。それは算数の問題となんら変わらない。
算数の問題を疑問に思う人は居ても、算数を疑問に思う人はなかなか居ない。

もうすでに、問題として存在するものに疑問を抱くのは難しくない。
だけど、生活では問題を見つけるということのほうが大切だったりする。

なんとなく、ニュースやなにかで、問題のほうばかり目がいきすぎではないだろうか。
そこで、表面以外の、大切な何かをわからないままにしていないだろうか。
コラム01.29(Tue)00:59コメント(82)トラックバック(0)Top↑
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額縁の中の世界

友人は絵がうまい。
出展もしている。

だけど、友人は絵を額縁に入れることがない。

ちょっと前、その絵を描いている友人と額縁について話した事があった。
その友人が言うところによると、額縁さえあればどんなへたくそな絵だろうとすばらしいような絵に見えてしまうのが嫌で額縁にいれず出展しているとの事だった。

あー、なるほど。実に堅実でエゴイズムな友人らしい意見で面白かった。(褒めています)

ひとつ想像してみよう。
幼稚園児B君の描いたクレヨンの絵が、大判印刷されて駅前のポスター群のひとつとして飾られている。

同じように、くだもの缶のラベルに貼られてスーパーの売り場に並んでいる。

雑誌の表紙を飾り、本屋さんに平積みされている。

B君の絵は学術的にも美術的にもなんの価値も無いものだが、ひとつ媒体が変わるだけで受け取る側の理解が一変する。それは何も広告とかポスターとかラベルという媒体に限らない。環境をもその判断を変えてしまう。

美術館で、

お絵かき教室で、

病院で。

むしろ、媒体というよりも環境そのもののほうが強い。
友人は額縁という枠組みは拒絶したが、展示会という額縁には入れられている。もし、純粋にこの絵を見て欲しいと考えていたとするならば、残念ながら叶っている願いではないだろう。

環境という額縁はそれほど強い。だからこそうまく使えばすばらしい効果が期待できるのだが……。なんだが最近その額縁があまりにマイナス方向に使われすぎているような気がする。

その典型がブランドだ。

商品というものは基本的にブランドという額縁を背負い販売されている。時には店という額縁までしょって売られている。人はその額縁も含めて商品のよしあしを判断しているのだから、赤福や白い恋人などはなんとも言えない。

額縁は使いようによって毒にも薬にもなる。
そして額縁とはモノがこの世に出た時点で必ず付きまとう。
人にもコトにも。

友人がもし有名な画家になったら、その名前すら額縁になる。
その時友人はどするのだろうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.30(Sun)01:01コメント(4)トラックバック(0)Top↑
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webデザインの警鐘

■ Web屋さんって何をつくるお仕事なんですか? その職業の方は必要なスキルが多いんですか?:DESIGN IT! w/LOVE

■ WEB業界の人が、今更WEB屋になに作ってるんですか?というのは何事*ホームページを作る人のネタ帳

webデザイン関係の方々のブログでなにやら熱い議論がなされているようなのですが、さてさてこれが私の今まで抱いていた疑問を一掃してくれたのでよかった。

くわしい話はかなーり長いので省きますが、私も感じたところは違えど、感じたものは同じで。話の流れがわかりやすいのはこのブログでしたので、こちらで。
■ 情報デザイン勉強部屋 情報デザインは誰がやる?。


さて。

ホームページを作る人のネタ帳さんのエントリーを見ていて思うのが、


なぜ、webサイトを製作するためにまず技術なのか?
(この技術とはフォトショップやプログラミングだけでなく、今まで作られてきた手法、SNSやブログなども含みます)

技術は確かに物事のできる幅を広げます。だけど、デザイナーが見るべき枠組みはその技術で制限されている枠組みから探すようなことではないはずです。私たちは何をしたいかを明確化して、その何かに対して技術を合わせるはずです。

技術は道具です。

道具は人の手を延長させますが、私たちは道具に縛られて生きているわけではない。

webなんて便利なものがあるから作ろう、でwebは始まっているのではないはずです。
フォトショップがあるから、こうゆうものを作ろうでは無い。

「こうゆうもの」を作りたいからフォトショップを使おう。
「こうゆうこと」をしたいからwebがちょうどいい。

デザイナーは「こうゆうこと、もの」も考えられる人

ホームページを作る人のネタ帳さんはそこを教えてくれない。

webデザイナーはお客さんがwebを必要としているかどうかまず判断しなければいけないはずなのだ。お客さんが何を目的とし、それを達成するにはどのような戦略を行うべきなのか。

佐藤可士和さんがいいことを言ってくれていました。
「デザイナーはお医者さんである」と。
患者が風邪といったから、風邪薬を出すのではない。その人の病状、状態を診察、判断して、最善の処置で直す。

デザイナーというものを勘違いしないでください。
デザイナーは絵を描ける技術を持った人ではない。
デザイナーはいいレイアウトをする技術を持った人ではない。
こんなwebを作れといわれて、仕様書を渡されれば、プログラマーなら誰でもできる。

目的のために、さまざまな思索をめぐらせ、適したカタチで実現することができる人。


だからこそ、hirokiさんは車や家というたとえを持ち出した。

ビジュアルデザインをやる人だからといって、絵を描くこと知ってればいいわけではない。むしろそれだけの人をデザイナーとは言いません。多種多様なクライアントが存在する以上、家のことも車のことも知らなければいけない。
そこでどうデザインが実在し、機能しているか。


はっきり言いましょう。

企業側は「御社の365日働き続ける営業マン」など求めていない。ユーザーも求めていない。

webをそんな枠組みの中に限定しないでください。

SNS、ニュースサイト、そんなありふれたものではないです。

もっといい薬があるはずです。
そのもっといい薬の実現のために技術があるはずです。

だけど、その薬を見つけることができるのは、思考だけです。



プログラムもフォトショップも道具に過ぎません。道具は何も作ってはくれない。人がはっきりとした目的を持って、はじめて実現される。

だから問うのでしょう。
webデザイナーはこれから何を作るのか、と。

ひとつ思うのは、webデザインをしていた人が、webしかできないというような状況を作ってはいけない、ということ。デザイン活動というのは、人間を根本としているものだから、途方も無いくらい他業種に応用できる力を秘めている。
それが、私はプログラムしかできません。フォトショップでこんなことしかできません。では話にならない。

私もこの話題にかかわった身としてこの問いに答えてみたいと思います。

でもこの問いにたぶん明確な答えはなく、あえて言うなら

「この問いを持ち続けることがひとつの回答」なのではないでしょうか。


3:38 ちょっと修正
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.28(Fri)03:07コメント(0)トラックバック(2)Top↑
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名づけ行為とデザイン

日本酒には暖めて出すという、世界の中でも珍しい(らしい)文化があるのですが、なんと熱燗以外にも日本酒の暖かさにはレベルがあったのだと、今日の新聞に載っていて興味をひかれました。

お燗には30度から5度刻みで異なる呼称が6つもあるそうで。
日本酒を温めたものといえば「熱燗」だけしか知らなかった、もとい熱燗の存在しか知らなかった私からするとなんともびっくりな話なのです。
名前は温度の低いほうから順に日なた燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、飛び切り燗とあるとのこと。

しかも熱燗よりも人肌燗で飲むほうが通好みでうまいらしい。

それじゃあなんで熱燗しかお店にはないんだ?(私が知らないだけ?)

さて、本題。

日本酒における熱さのレベルだけでなく、物事にはレベルで名前が変わるものが多数存在します。
身の回りにおいても、甘口、中辛、大辛、激辛のような大きさ名称から、ミディアム、レア、みたいな180度名前の変わってしまうもの、木、林、森のような量の増えるもの。
数値上のものさしではなく、人間上のものさしですね。絶対値と相対値。
1,2,3が数値的レベル、大、中、小が人間的レベル。
(基本的にこの人間レベルのようなものに数値的絶対値というものは存在せず、あくまで人間的主観のみによって測られるものというのが原則なのですが、化学だろうと物理学だろうと人間の目に見える範囲が絶対値みたいなもので、数列といっても人間のわかるレベルに直したものにすぎず、2進数と10進数みたいな違いでしかありません。尺貫法が人間の身体から来ているのと同じですね。なのでここで話す人間レベルとはあくまで人間の理解レベルの話です。3以上の数値を一瞬で把握できないような)
人間はそんな自分の身の回りに起こる事細かな事象を人間レベルで区別するために数字よりわかりやすい名前をつけます。

また比喩、暗喩表現も人間レベルに直したものです。
これは熱燗の話に近いものですね。温度を人肌などに例えることで理解しやすくしています。

もうひとつ日本には特別にもう一つ物事の人間レベルで言葉化をできるものが存在します。
オノマトペ。擬音語(擬声語、擬態語)ですね。でも、これは数値を人間レベルに直すというよりは、大きい枠組みを人間レベルに細分化するものと捉えたほうがいい気がします。
たとえば一口にやわらかさを表現するオノマトペを探しても、ふわふわ、ぷにぷに、ふかふか、もふもふ、などさまざまな表現が可能です。でもその表現ひとつひとつに人間の感覚に訴えかけられるレベルの区別が存在します。ふわふわクッション、ふかふか毛布、ぷにぷに人肌のような。

そのような細かな素材感、テクスチャをオノマトペは表現でき、伝えることができる。


この3つの名づけるという行為、ここがデザインにとって重要ではないかと最近思うところで。人間が理解しにくい大きいもの、見づらい小さいものを、人間レベルにわかりやすいように翻訳する。
さて、どのように翻訳するのか。
それこそまさにデザイン。


この記事を書いているときちょうどいい記事を見つけました。
■ となりのインテリア テトリスのようなキッチンタイマー。 amadana(アマダナ) キッチンタイマー
砂時計も時間の翻訳ですが、これはテトリスを用いてタイムアップに重きを置いたような時間の翻訳ですね。テトリスを知っている人のみに対象は限定されてしまうでしょうが、そのような前例が存在するのであれば、一瞬で人間レベルの時間を計測することができる見事な翻訳だと思います。
ブロック(時)が降り積もっていくという演出もタイマーとしての機能と重なって面白いニュアンスを生み出していますね。


アナログ時計で見えていたものがデジタル時計で見えなくなる、というのはよく聞くお話で。情報化社会という実に数値的な社会に、なんとか人間レベルに翻訳しようとがんばっているのが今のデザインというものなのかと思うしだいなのです。

スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.25(Tue)04:40コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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星のデザイン

ライトは何をデザインしているかといえば、光のデザインで。
やっていることは太陽と同じことなんですよね。

もうすぐクリスマスの中、街を彩っているクリスマスのイルミネーションは、星々のきらめきをデザインしていると考えると、にぎやかな反面なんだか悲しくなってしまいます。

街は星々のきらめきでいっぱいなのに、もともとの居場所には星一つ見えないんです。


人は失ってしまった星々のきらめきをもとめて、街を飾ったのでしょうか。
現代の真っ黒な空を嫌がって。


……


デザインを考える上でよく気になるのは自然と技術の折り合いで。
道具は人の行動範囲を広げたけど、人の限界は広げていない。

電気があれば夜は越せるけど、眠気は越せない。
太陽光に近いライトはとてもいいと思うけど、太陽光なしにたぶん人は生きられない。

MONGOOSE STUDIO | 日の射す窓辺を心に描く Bright Blind

このライトはすばらしいデザインだと思うのだけど
これを必要とするような環境はたぶん、とても嫌な環境ではないだろうか。

自然をデザインするなんておこがましいとまでは言わない。

だけど、便利すぎる世の中は確実に自然をデザインしていたのではないか。
ライトは太陽を。メールはコミュニケーションを。ストーブは火を。ゲームは体験を。

最近のプロダクトは人間が人間であるためにデザインされているのかもしれない。
深沢直人のケータイは人間の残した痕跡を元にカタチを決めていた。
上のライトだってそうだ。

使いやすい。簡単。便利。楽ちん。速い。安い。

でも、そこで失ってしまった何か、ぽっかりと空いてしまった穴を埋めるためにデザインはあるのだろうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.21(Fri)04:17コメント(1)トラックバック(0)Top↑
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正しい知識と正しそうな知識

前記事にNATROMさんからコメントがあり、普通にコメントを返信しようと思ったらなんだか興味深いことにつながっていそうなので、記事としてとりあげてみます。

NATROMさんのコメント
本当に、最近はめんどくさい世の中になりましたよねえ。臨床の現場でもリスクや安全性について、お互い望んでいないような詳細な説明が必要になりました。

実はですね、献血が安全だなんて自明なことだと思っていたのですよ。ぶっちゃた話、こんな馬鹿が存在するとは思わなかったレベル。おそらく宣伝したところで彼らには届かないと思います。「安全だ」などと宣伝したらしたで、かえって怪しむ連中だっているでしょう。彼らは単に馬鹿なだけで、本当は安全性なんか気にしちゃいないのじゃないか。安全を求めるのなら、正しい知識を得る努力をするはずです。



確かに私も、「安全だ」などと伝えたところで、ターゲットには届かないと思います。
でも、正しい知識を得る、というところは少し疑問です。

なぜいま両者も望まないような詳細な説明が必要になったのか。
とりあえず医療ミスが根本の原因としておくと、患者は医者がよい医者か悪い医者か判断しなければいけないと思ってしまう。そこで正しい知識を持っているような安全な医者かどうか説明を聞いて判断する。

でも、その説明を聞いてよき理解が得られる人が何人居るのでしょうか。
私が昔かかった溶連菌感染症とか変な名前とか医学用語をならべられても、医者じゃない人はまるでお手上げ。
では、なぜそんなわけのわからない説明を聞いて判断するのか。

極論してしまえば正しい説明など必要ない。その説明、説得を聞くことで安心を得られるということが大事なのでしょう。
ようは正しいか正しくないかではなく、正しそうか、正しくなさそうか。
そこが判断の焦点になっているのではないかと思うのです。

プレゼンと一緒で、いくらプレゼン内容が正しかろうと、プレゼンする人が自信なくプレゼンしていれば、それは正しくなさそうな情報に見えてしまう。

情報公開は、情報公開の事実、つまり事実の広告性が役立つのであって、実際公開している情報を扱うのはほんの一握りなのでしょう。

そう考えると一番問題なのは医療ミスや血液感染の恐れがあるというマスメディアの情報公開であって、安全なのに安全じゃなさそうな状態にさらされている現場は被害者なのではないか。
もちろん、伝える努力は大事とは言っても、マスメディアにプレゼン能力でかなうはずもなく、さらに消費者は「安全」よりも「安全じゃない」という広告に食いつきやすい。

まさに負のスパイラル。
しかも献血という生きているうえでは必要の無いボランティア活動になってしまったら……。

じゃあどうするか。
NATROMさんの言うとおり、「安全」の宣伝じゃ効果はきっとありません。
言葉のあやと言われるかもしれないですが「安全」の説得、説明、プレゼンしなければいけないのでしょう。

(となると、前回の記事タイトル「安全という広告」は間違ってますね……。伝えたいことは一応一緒なのですが。)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.01(Sat)12:22コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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安全という広告

■ 若者の献血離れが深刻 - NATROMの日記

安全、……か。

実は私も献血をしたことがない。
別に献血がきらいとか、ボランティアが嫌いとか、偏見があるから、とかそーゆーことではなく、ただ自然にしたことがなかっただけで。献血といわれてもいまいちピンとこないというのが正直な感想。

私のことはさておき。

上の記事では若者(正しくは痛いニュースのコメント)に根付いている献血に対する無知や僻み、偏見への反論が主なのだけど。NATROMさんの言うとおり、献血は安全で、しかもそれを運営している会社も大変なのだろう。でも、残念ながら若者には伝わっていない。

ドラマや漫画でも医療や輸血をめぐったものはおおいし、若者にも結構な認知度があるのは確か。想像ではあるけれど、条件が合えば献血したいという人は結構多いのではないだろうか。でも、残念ながら安全かどうかがわからない。


なんでそんなに安全かどうか疑ってかかるのか。

なんでって、そりゃあ……

今の時代は「安全ですよ」と声を大にして言わなければ、安全と認識されない時代だからではないか。

白い○人しかり、ミー○ホープしかり、お医者さんもお役所さんも、はてはあやしい金融さんも安全性うんぬんをうたう時代。(実際安全かどうかはおいといて)
そこらのスーパーも原産地をあらわにしたり、賞味期限を気にしたりしているのに、献血はまるで安全性をうたっていない。

もちろん、WEBサイトにはNATROMさんが書いていることが、しっかりと明記されている。
でも、これは明記されているとかそうゆう問題じゃなく、届いているかどうかの問題。

若者が何を心配し、何で安全を確認したがるのか。
そしてどう安全を確認しているのか。

そこを捉えて、伝えていかなければいけない。


しかしまぁ、最近本当にめんどくさい世の中になったなぁと思う。(いや、まだ20代そこらだけど)

昔は安全なんて信頼でことたりた気がする。

お母さんの行っているお医者さんはいいお医者さんだった。
お父さんの行っているお寿司屋さんはいいお寿司屋さんだった。
友達の友達はいい友達だった……かな。

まあ、とりあえずそれだけでよかった。

いや、今でもその風潮は残っていると思うけど、情報がどんどん増えていって、あふれかえって、信頼できるのが誰なのかなんなのかわからなくなって、とりあえず目に付いて安全そうなのが安全だと思える時代になっているのかもしれない。
みんな広告(ブログや口コミ、ニュースなども交えたもの)をたよりにしている。
自分に届いていない「安全」は「危険」

伝えることは大切だと思う。伝えなければいけないとも思う。
だけど、伝えなければいけなくなったというのは、なんだか悲しい。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.29(Thu)14:28コメント(1)トラックバック(0)Top↑
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重力のデザイン

■ ついにレコードの時代が終わる - ココロ社

結論から言ってしまうと、小型化からデータ化へと時代は移ってきています。それつまり重力からの開放。

小型化という概念が無かった(?)であろう時代にあったレコードがついに終わるだなんて、CDも過ぎて、PCで音楽を聴いているファミコンすらやったことの無い私には、実に遠く時代遅れのように感じてしまう話なのですが。CDすらデータミュージックに株を取られつつある時代ゆえになにか感じるところが多かったのでこのニュースを紹介。


データ化することで、音楽はさまざまな制約から解放され

そしてさまざまな制約を生み、何かを失いました。


ここで、いくつか興味深い事例をあげてみたいとおもいます。


紹介している記事で、最後のほうに興味深い話が書かれていました。
>でも、個人的には、重いレコード袋を持って「今日は買い過ぎちゃったなぁ…」っていうのを四半世紀も続けてきたので、寂しいですね。

ゲーム脳批判ではないのですが、ボタンで人を殺す感触と、実際に人を殺す感触は想像に難くなくぜんぜん違います。そしてそれに対する、感情も。

そういえば、昔の記事に対価のデザインというのを書いていました。
WEBマネーを使ったときの実感と、実際の金銭を用いたときの実感の違いをつづった記事です。このあたりの私の危機感も昔から変わっていないようです。

最近見つけた面白いサービス新潮文庫の100冊 2007では、自分が気に入った本をWEB上の本棚にいれることができます。

最近のネット上の本やPDFにはページをめくるアニメーションがあります。

……

ネット上で何かがずれてきています。
正しくはネット上と現実の交わる界面(UIではない。だけどUIに近いどこか)で。

メールで話をしているのに実際にあって話したくなるような。
ネット上の友達どうしで、OFF会を開きたくなるような。
ひとりでいたいといっていた人が、ネットゲームをやっているような。
ひとりごとをブログに書くような。

MORI LOG ACADEMY: 大勢で見る
という記事がすごく面白いことを書いていました。
>臨場感という言葉で表されるものは、映像や音の質だけではない。場の雰囲気の大部分は、自分のほかにも同じことをしている(あるいは感じている)人間がいる、という感覚だ。同時であり、同所であるがゆえに感じやすい。この感覚は、たぶん人間が「群れ」をなそうとする習性に根づいているものだろう。見て、聴いて、感動している自分を、同じものを見て、聴いて感動しているだろう他人と比較して、確認したいのだ。一緒に楽しみ、一緒に笑いたい。
 この傾向は、インターネットでも随所に見られる。プライベートが基本の世界なのに、「一緒にいたい」気持ちがそこかしこに現れていて、掲示板やブログでも周囲を気にしている人たちが大勢観察できる。おそらく、20世紀後半のプライベートな文化の反動として、また群れをなしたい心理の再燃が今のムーブメントなのだろう。


プライベートな文化だけじゃない。
今私たちが欲しているのは、リアルではないか。
重力からの開放という利便性を求めていたのに、裏では重力を失うむなしさに確かに気づいていた。

5.1チャンネルサウンドは確かにリアルなサウンドだけど、においや温度までは感じられない。なのに、買う人は途絶えない。
文字は声じゃないのに、絵文字は顔じゃないのに、私たちはそこに人がいると感じてしまう。

この記事を書いていて思いました。
これは、何かが「くる」なと。
いや、すでに、すでに何かきている。
むしろ私は気づくのに遅すぎた。
昔の記事で私がすでに感じ、記していたのに。

危険なものか、いいものかは私に判断がつけられない。


ただ、新しいデザイン対象であるということだけはわかる。
mixiやニコニコ動画が流行したように、これから新しいサービスが、デザインが次々と生まれてくる。それは絶対web2.0じゃない。web3.0というのにも語弊がある。
新しいデザインの波はwebという世界で終わらないだろう。(そう考えるとひろゆきが言っていた、ニコニコ動画がテレビに勝てない理由に合点がいく)

webと重力を交えた新しいデザインがこれから出てくる。

そこで、HP作成をレベルアップさせたようなwebデザイナーの半分以上が消え去るのではないか。


上を向け。私が見るべきは地面じゃない。地平線をみろ。
(自分への戒めをこめて。)
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.24(Sat)21:10コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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グラフィックの仕事

■ ダビンチが絵に音楽隠す? イタリアの音楽家が新説 - MSN産経ニュース

上記のニュースが面白かったのでちょっと紹介。
レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作といわれている「最後の晩餐」に実は楽譜が隠されていた、というイタリアの音楽家が見出した新説だそうで、はじめは「へー。よくまぁ、そんなこと考えるもんだなぁ」とか思っていたのですが。

ふと気になることがありました。
人類は生まれてから何かと外部的なものに、記録を残す癖(?)みたいなものがありますよね。それは見たものだけでなく今回のような音楽や歌、といった形の無いものも。
人間の想像力によって具象化したものから、記録伝達を主とした記号的な形でも人は残してます。(前者は印象派、後者は写実主義と言い換えることもできるかも)

音楽や歌だけではありません。人が感じた空気、感情、味、気温、匂いもそう。
五感や心で感じたものを、人間は何かと表現し、伝える。

ただそこに、伝えるため、意思疎通を図るためのなんらかの意匠がほどこされている。音楽なら楽譜にしたり、感情なら絵文字にしたり。名称をつけるのもそのひとつの手法でしょう。

グラフィックデザインで必要なのはまさにそこで、実は私たち人が積み重ねてきた膨大な知識、知恵を元に仕事をしているのだと思うと、すんげーーーーーーーーーーーーーースケールの大きい仕事だなぁ、とこの文章を書きながら改めて思ってしまいました。


話は戻って、音楽説が正しかろうと、正しくなかろうと、最後の晩餐はいったいどんなデザインがなされていたんでしょうか。気になるところです。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム11.18(Sun)20:38コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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モニターの外側

watasi


 私は字を書くのが下手だ。
 字が汚い、というのもあるが、とにかくバランスが悪い。一文字一文字の間がまちまちだったり、字と字の大きさががばらばらだったり。だから、どちらかといえばPCで文章を書いているほうが、まあ……気が楽だったりする。


 さて、私はPCで(たとえばフォトショップで)文字を打つとき、とりあえず文章を打ってしまってから、大きさを変更したり、字間を調整したりすることが多い。誰かほかの人の作業を見たことがあるわけではないが、大きさや調整は後回しの人が多いと、思う。
 それが紙に鉛筆で文字を書くとなると、勝手が違う。まず、書く文字の量を考え、書く範囲、紙の大きさを見定め、文字の大きさを考え、書き始める。つまりPCとは180度違い、書くという前の想像が最初に来てしまうのだ。

 
 私が最近苦しんでいるのは、まさにそこで。
 PC慣れしすぎた私の頭に、紙の大きさや文字の間隔など、はじめから眼中に無く。それなのに頭は綺麗な字を書こうとする。
 もちろん、そんなことを考えるなんて普段字を書いているときには、まるで意識されない部分ではあるが、書道などを見ていれば、まさに私が苦しんでいる底を丹念に突き詰めて書かれているように思う。


 全体を見ながら描きなさい、とは大学の先生がよく言っていたことで、でも私は目の悪い人よろしく、目を細めながら細部へ細部へと変に細かいところに集中して、全体はいつもおろそかだ。PCの拡大機能が、自分の目のようで悲しい。



 私が見るべき部分は、モニターの外側なのに。 
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム10.22(Mon)16:34コメント(0)トラックバック(0)Top↑
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