» HOME  » RSS  » ADMIN
dot1 dot1

とけいがやばい

20091122213214
最近、久しぶりに時計が熱い!
(」゜□゜)」

制作のうっぷんやら、抑制のうっぷんやらなにやらがたまって、時計に放出している気がする。

卒制でひーひー言っている合間を縫って、惚れ込んだ一枚をイラストにしてみました。こんなに真面目に描いたのは初めて……!
(゜∀゜;ノ)ノ

時計のモデルは「クロノスイス」の「エターナル・カレンダー」
もちろん機械式腕時計!(リューズは許して……)
このクラシックな感じと名前の通りパーペクチュアルカレンダーを搭載しているところがなんともいえない雰囲気を作り出している逸品!
ムーンフェイズもいい味だしてますんでますが……!
イラストのほうでは、絵としての強さを求めたため、文字盤のローマ数字が黒ベタではなくゴールドの彫金になっています! おかげでムーンフェイズが浮くわ浮くわ……orz
ムーンフェイズは私が好きな機構の一つなので次描く時には ムーンフェイズ主体でイラストを仕上げようと心する所存です。

いつもとノリが違いますが、気にせず続きます。

ところで、ムーンフェイズのディスク、実は月が2つ描かれているんですね。時計の構造上、半分の歳月を隠れて過ごすわけにはいかないので、2つ描くことで、1つ目が新月になる次に2つ目の月がでてくるという構造なんですね!
それがどーしたんだ? って感じですが……、気になりませんか? 一つが空に登っているときにもう一つの月は文字盤の裏に隠れてしまう。なんだか、少し寂しいようなストーリーが浮かびます。
という変なことを考えていたのでイラストの女の子二人は月の女神とか月の使いとかそんな設定があったりします。だからもう一人はおやすみなんですね!
( ̄∀ ̄)
(言っちまった!)

そんなこんなで、クロノスイスのエターナルカレンダーでした。
ほしいです……。ほしいですねー……。ちなみにお値段
二百九十四まんえん……だそうです。
日記11.22(Sun)21:30コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

いろ、いろいろ

20091111225723
昔、「この色って何色だろう」と考えていた時があった。


この何色っていう疑問は、今思うとちょっと変わってて、青色とか空色とか、コバルトブルーとかそんな色の固有名詞を求めていたのではなく、自然界にある海のグラデーションや木の肌の様々な色の交わりを指して、何色だろうと考えていたのだ。
親に聞いてもそんなこと親は考えるはずもなく、「青だよ」「白じゃないか」とか正確な、ある意味曖昧な答えをくれた。

今でこそ、複雑な、かつ境界線すら定かではない色のつらなりだとわかるが、当時は自分の考えていることの理解すらままならず、そのまま時が過ぎていった。


最近、色をたくさん(といっても15色くらい)かつ細かく扱っているせいか、そんな昔のことを思い返したり、印象派の絵画が好きなのはそのあたりからきているんだろうなぁとか考えたりする。
コラム11.11(Wed)22:53コメント(1)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

思いの持続力

「あなたは彼女を一生愛することを誓いますか?」

いやー……
めっちゃ難しいでしょー
( ̄∀ ̄;)

別に彼女居ないけど。

でも、今の世の中、愛に限らず、思いを一生抱ける人っていくらいるのだろう。好きを貫ける人、こだわりを持ち続けられる人、別に好きじゃないけどそれだけでおまんま食っていく人、どれだけいるのだろう。
好き、好き言うのは簡単だし、行動すること自体もそんなに難しくない。
でも、続けられる人はごくごく一部だ。
まして、一つでも、一つだからこそ難しい。

今、卒業制作の真っ最中だ。半年近くかけて一つのものを仕上げようとしている。しょーじき、難しい。

サグラダ・ファミリアをご存知ない方はいないだろう。スペインにあるガウディの有名な建築の一つだ。今なお建設中で、もう着工から120年以上になる。二世代、三世代は行く計算だ。

ここの建設に携わり、一生を賭して、しかし完成すら見ずに死んでいった人がいる。ガウディだけでなく、建設に携わった人の数多くは、思いを持ち続けながらも死んでいった。
絶句だ。私は半年足らずの作品にすらもがき、苦しんで、なんとかなんとか作っている。続けることすら嫌になりながらも、続けている。

比べるのがバカバカしいのは百も承知だ。ただ、バカバカしくも、励まされないこともない気がするのだ。
続ける力って確かに存在するんだなって。百をとっかえひっかえ愛するよりも一か二、愛し続けることができれば、幸せなんだなぁって。
日記11.10(Tue)00:38コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

音楽と広告

ドイツが音楽を利用して、国民をまとめあげた話と、アメリカが戦争へ国民を駆り立てるために使用した広告。
爆笑学問で、坂本龍一が音楽でドイツをまとめあげたという話をしていたけども、それとデジャヴを感じたのが、アメリカで使われた世界初の広告と言われているあのポスターだ。
自分がまだ広告を作ってみたいと思っていた頃、同じ事を抱いた事がある。広告はうまくいけば宗教のように人の欲望や感情をコントロールできるという話。私はそれを考えたときすごく魅力的に感じたのと同時に恐怖もした。さらに、現代における広告はそれにすれすれ近い、もしくはもうやってはいけない領域に入っているのではないかと考えた。
人の欲望を駆りたたせ、必要の無いものをさも必要かのようにイメージを植え付ける。
そして、それは音楽でも可能なのか。
ドームに1万人もの人を集めてライブを行う事がある。あのとき、あそこに集う人たちは一種の仲間意識とも強大な共感性ともつかない衝動につかれていると思う。(残念ながら私はライブに行った事が無いのだけど)
もし、その強大な共感性のベクトルを何か恐ろしい方向へと動かす事ができたら、広告と同じように人々を何かへ駆り立てる衝動を生み出す事ができるのか。
もしかしたら、音楽は広告以上に広告的強さを持つものかもしれない。
ビジュアルは、単純で伝わり易い故に、もろさを併せ持つところがあると思う。
人によって感じるイメージがぶれるところが大きいと思うのだ。見る人の育った環境、現在の感情、今おかれている場所。もちろん音楽も左右はされるが、ビジュアルよりはダイレクトではないだろうか。生理的に嫌な音、赤ちゃんが好む音。あと、同じものを周りの人も聞いているってところも大事なミソではないだろうか。
昔の記事で、重力のデザインというのを書いたのだけれど、そのなかに同じ体験を共有していることの強さを書いていたけど、そこが集団としての力をつくる一つのポイントだろう。
世界征服なんてものは、戦争ではできっこないのかもしれない。
案外、身近なところに征服する足がかりがあるのかも。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム09.11(Fri)17:15コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

先入観を持って接する事。

よく、どんな本だかは忘れてしまったが「先入観を捨てる事」というような話をしていることが多々ある。だけど、私はそこに一つ異を唱えてみたい。
先入観を持って物事に接する事。
例えば本を読むとき、人と話す時、テレビを見るとき。
情報に対して接するとき、私は先入観を持ってその情報に接するのがいいと思うのだ。
なぜか。それは自分の先入観、価値観との違いに敏感になれるからだ。
本を読んでいて、自分が持ち合わせる価値観というものが無ければ、その情報というのは、その情報そのままのものになってしまうが、その情報が正しいのか間違っているのか、面白いのか面白くないのかは、自分が持っている先入観を0として2や3に、時には−3や−6になる。
そこが実のところ面白いところであると思うのだ。人によって情報への接し方というのは違っていて当たり前だ。味の好き嫌いもあれば匂いの好き嫌いもある。情報にだってもちろん、そうだろう。なによりも、自分が持ち合わせた先入観と実際に情報に接した時のギャップが何よりも面白いと思うのだ。
ただ、先入観を持ちすぎて拒絶してしまう事はさけるべき事であると思う。
自分の先入観とすりあわせながら接するというのが大切であると思うのだ。
先入観というよりも、自分の価値観と言い換えた方がいいかもしれない。
もちろん、ギャップで傷つく事や、打ちのめされる事もあるだろう。
でも、そのギャップをもっと楽しんでもいいのではないかとも思うのだ。
スレッド:伝えたいこと|ジャンル:ブログ
コラム09.10(Thu)00:32コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

自分の感覚を大事にする事

自分の感覚を大事にする風土が失われている気がします。
ものを作る事って、自分の感覚を大事にしながら作る事だと思います。自分の感覚って言いますけど、そんなたいそれたことじゃなくて、
例えば、賞味期限切れてしまったオレンジジュースとかが腐ってないか確認するのに、賞味期限の日付を気にするのではなく匂いで判断したりすることがあると思います。まさにそんな日常の一こまの感覚だと思うのです。お皿の汚れが取れたかどうかを、手でこすってみて確認する。文字の下の部分をそろえて書くとか。

そんな、日常で行う、自分の感覚を大事にする行為が、今、だんだんと失われていってます。
賞味期限が切れたものは、すべて駄目で、
お皿は食器洗浄機にかければオーケー
文字を打つのは、PCで。(まさに私がそう)

もちろん、現代は仕事の割合、生活の割合からして、文明の利器を使用する事が前提として生活が成り立っている側面があるので、なにも全部感覚でやってしまえとは言いません。でも、確実に奪われているのは確かな事で。

最近、なんとも職人肌な珈琲屋さんで、もっと自分の舌を信じて、珈琲を飲んでもらいたいという話をされました。

私が今まで好んで買ってきたところの珈琲をめった打ちにしてくれた、珈琲屋さんでしたが、確かにそこの珈琲はおいしかった。本当においしい珈琲とは何か? というスタンスまで突き詰めて飲んでいた訳ではなかった(言い訳になってしまうのですが)ので、私が買っていたところでも、十分おいしい珈琲屋さんだと思うのですが、また一つ、おいしい珈琲ということについて考えさせられたという意味でも、大切な珈琲屋さんです。

おいしい、という言葉が溢れかえって、なにがおいしいかわからなくなるなんて皮肉。
コンビニのお弁当を買えば、ある程度の味が保証されたものが食べられます。

機織をしている時は特にそうです。
一番気を使っている糸の張りの強さは、私の手を伝わってくる糸の感触でのみ判断しています。その時々によって良い悪いは変わっていきます。使う糸によっても違います。
それは、自分の感覚を信じる事でしかできません。
また、その自分の感覚というのは、経験をつむことで、累積され、磨かれ、上達していくものだと思います。

スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
日記09.07(Mon)16:38コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

わからないことがわかるのではなく、わからないということがわかる

世の中、わからないことだらけだ。
何か例をあげようとしたけど、それもなんだかわけがわからなくなってしまった。

でも、まあそこが今回の問題ではないのでよしとする。

ところで、学問にせよ、科学にせよ、技術にせよ、なんにせよ、ここまで発展してきた一つのキーは、なにより疑問である。その疑問を解決するために、人はここまで発展してきたといっても過言じゃない。(むしろそのものか)

「わからない」
「なぜ」
「どうして」


私のとある友人は「わからない」「なんで?」をよく言ってくる。
でも、その友人は結構頭がいいほうなのだ。
私よりもはるかに頭がいいはずなのだ。
英語なんて、天地の差なのだけれど、友人の口癖は「なんで?」である。

どこかの国の、どこかの発明家だったか、「なんで?」が口癖の有名な人がいた記憶がある。

いつも「なんで?」「どうして?」と言っている人はとてもすごい人だ。
でも、彼らは「なんで?」「どうして?」と疑問をもつからすごいわけではないと思うのだ。
一番すごいのは、わからないということがわかる、ということだと思う。

ちょっとここであべこべになってしまうのだが、
重力を発見したニュートンはリンゴが落ちるのが「なんで?」か、ということを発見したからすごいというわけだけど、私が示したいのはリンゴが落ちるということが普通じゃないと気づいたことがすごいと言いたいのだ。

もっと身近に説明すると、最近私がしたデッサンがいい例だと思う。
石膏像をデッサンしたのだが、どこかおかしい。くびかな? 頭かな?
そのおかしいと気づく、ということが「わからない、ということがわかる」だ。

さて、なんでここまで「わからないということがわかる」を述べてきたかと言うと、今私たちの世の中は「わからないということがわかる」が結構失われているのではないか、と思うのだ。
実は「なぜ?」というのはそんなに難しいものではない。
もうすでに問題があれば、人は誰しも疑問を抱く。それは算数の問題となんら変わらない。
算数の問題を疑問に思う人は居ても、算数を疑問に思う人はなかなか居ない。

もうすでに、問題として存在するものに疑問を抱くのは難しくない。
だけど、生活では問題を見つけるということのほうが大切だったりする。

なんとなく、ニュースやなにかで、問題のほうばかり目がいきすぎではないだろうか。
そこで、表面以外の、大切な何かをわからないままにしていないだろうか。
コラム01.29(Tue)00:59コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

額縁の中の世界

友人は絵がうまい。
出展もしている。

だけど、友人は絵を額縁に入れることがない。

ちょっと前、その絵を描いている友人と額縁について話した事があった。
その友人が言うところによると、額縁さえあればどんなへたくそな絵だろうとすばらしいような絵に見えてしまうのが嫌で額縁にいれず出展しているとの事だった。

あー、なるほど。実に堅実でエゴイズムな友人らしい意見で面白かった。(褒めています)

ひとつ想像してみよう。
幼稚園児B君の描いたクレヨンの絵が、大判印刷されて駅前のポスター群のひとつとして飾られている。

同じように、くだもの缶のラベルに貼られてスーパーの売り場に並んでいる。

雑誌の表紙を飾り、本屋さんに平積みされている。

B君の絵は学術的にも美術的にもなんの価値も無いものだが、ひとつ媒体が変わるだけで受け取る側の理解が一変する。それは何も広告とかポスターとかラベルという媒体に限らない。環境をもその判断を変えてしまう。

美術館で、

お絵かき教室で、

病院で。

むしろ、媒体というよりも環境そのもののほうが強い。
友人は額縁という枠組みは拒絶したが、展示会という額縁には入れられている。もし、純粋にこの絵を見て欲しいと考えていたとするならば、残念ながら叶っている願いではないだろう。

環境という額縁はそれほど強い。だからこそうまく使えばすばらしい効果が期待できるのだが……。なんだが最近その額縁があまりにマイナス方向に使われすぎているような気がする。

その典型がブランドだ。

商品というものは基本的にブランドという額縁を背負い販売されている。時には店という額縁までしょって売られている。人はその額縁も含めて商品のよしあしを判断しているのだから、赤福や白い恋人などはなんとも言えない。

額縁は使いようによって毒にも薬にもなる。
そして額縁とはモノがこの世に出た時点で必ず付きまとう。
人にもコトにも。

友人がもし有名な画家になったら、その名前すら額縁になる。
その時友人はどするのだろうか。
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.30(Sun)01:01コメント(3)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

webデザインの警鐘

■ Web屋さんって何をつくるお仕事なんですか? その職業の方は必要なスキルが多いんですか?:DESIGN IT! w/LOVE

■ WEB業界の人が、今更WEB屋になに作ってるんですか?というのは何事*ホームページを作る人のネタ帳

webデザイン関係の方々のブログでなにやら熱い議論がなされているようなのですが、さてさてこれが私の今まで抱いていた疑問を一掃してくれたのでよかった。

くわしい話はかなーり長いので省きますが、私も感じたところは違えど、感じたものは同じで。話の流れがわかりやすいのはこのブログでしたので、こちらで。
■ 情報デザイン勉強部屋 情報デザインは誰がやる?。


さて。

ホームページを作る人のネタ帳さんのエントリーを見ていて思うのが、


なぜ、webサイトを製作するためにまず技術なのか?
(この技術とはフォトショップやプログラミングだけでなく、今まで作られてきた手法、SNSやブログなども含みます)

技術は確かに物事のできる幅を広げます。だけど、デザイナーが見るべき枠組みはその技術で制限されている枠組みから探すようなことではないはずです。私たちは何をしたいかを明確化して、その何かに対して技術を合わせるはずです。

技術は道具です。

道具は人の手を延長させますが、私たちは道具に縛られて生きているわけではない。

webなんて便利なものがあるから作ろう、でwebは始まっているのではないはずです。
フォトショップがあるから、こうゆうものを作ろうでは無い。

「こうゆうもの」を作りたいからフォトショップを使おう。
「こうゆうこと」をしたいからwebがちょうどいい。

デザイナーは「こうゆうこと、もの」も考えられる人

ホームページを作る人のネタ帳さんはそこを教えてくれない。

webデザイナーはお客さんがwebを必要としているかどうかまず判断しなければいけないはずなのだ。お客さんが何を目的とし、それを達成するにはどのような戦略を行うべきなのか。

佐藤可士和さんがいいことを言ってくれていました。
「デザイナーはお医者さんである」と。
患者が風邪といったから、風邪薬を出すのではない。その人の病状、状態を診察、判断して、最善の処置で直す。

デザイナーというものを勘違いしないでください。
デザイナーは絵を描ける技術を持った人ではない。
デザイナーはいいレイアウトをする技術を持った人ではない。
こんなwebを作れといわれて、仕様書を渡されれば、プログラマーなら誰でもできる。

目的のために、さまざまな思索をめぐらせ、適したカタチで実現することができる人。


だからこそ、hirokiさんは車や家というたとえを持ち出した。

ビジュアルデザインをやる人だからといって、絵を描くこと知ってればいいわけではない。むしろそれだけの人をデザイナーとは言いません。多種多様なクライアントが存在する以上、家のことも車のことも知らなければいけない。
そこでどうデザインが実在し、機能しているか。


はっきり言いましょう。

企業側は「御社の365日働き続ける営業マン」など求めていない。ユーザーも求めていない。

webをそんな枠組みの中に限定しないでください。

SNS、ニュースサイト、そんなありふれたものではないです。

もっといい薬があるはずです。
そのもっといい薬の実現のために技術があるはずです。

だけど、その薬を見つけることができるのは、思考だけです。



プログラムもフォトショップも道具に過ぎません。道具は何も作ってはくれない。人がはっきりとした目的を持って、はじめて実現される。

だから問うのでしょう。
webデザイナーはこれから何を作るのか、と。

ひとつ思うのは、webデザインをしていた人が、webしかできないというような状況を作ってはいけない、ということ。デザイン活動というのは、人間を根本としているものだから、途方も無いくらい他業種に応用できる力を秘めている。
それが、私はプログラムしかできません。フォトショップでこんなことしかできません。では話にならない。

私もこの話題にかかわった身としてこの問いに答えてみたいと思います。

でもこの問いにたぶん明確な答えはなく、あえて言うなら

「この問いを持ち続けることがひとつの回答」なのではないでしょうか。


3:38 ちょっと修正
スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.28(Fri)03:07コメント(0)トラックバック(2)Top↑
dot3 dot5
dot1 dot1

名づけ行為とデザイン

日本酒には暖めて出すという、世界の中でも珍しい(らしい)文化があるのですが、なんと熱燗以外にも日本酒の暖かさにはレベルがあったのだと、今日の新聞に載っていて興味をひかれました。

お燗には30度から5度刻みで異なる呼称が6つもあるそうで。
日本酒を温めたものといえば「熱燗」だけしか知らなかった、もとい熱燗の存在しか知らなかった私からするとなんともびっくりな話なのです。
名前は温度の低いほうから順に日なた燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、飛び切り燗とあるとのこと。

しかも熱燗よりも人肌燗で飲むほうが通好みでうまいらしい。

それじゃあなんで熱燗しかお店にはないんだ?(私が知らないだけ?)

さて、本題。

日本酒における熱さのレベルだけでなく、物事にはレベルで名前が変わるものが多数存在します。
身の回りにおいても、甘口、中辛、大辛、激辛のような大きさ名称から、ミディアム、レア、みたいな180度名前の変わってしまうもの、木、林、森のような量の増えるもの。
数値上のものさしではなく、人間上のものさしですね。絶対値と相対値。
1,2,3が数値的レベル、大、中、小が人間的レベル。
(基本的にこの人間レベルのようなものに数値的絶対値というものは存在せず、あくまで人間的主観のみによって測られるものというのが原則なのですが、化学だろうと物理学だろうと人間の目に見える範囲が絶対値みたいなもので、数列といっても人間のわかるレベルに直したものにすぎず、2進数と10進数みたいな違いでしかありません。尺貫法が人間の身体から来ているのと同じですね。なのでここで話す人間レベルとはあくまで人間の理解レベルの話です。3以上の数値を一瞬で把握できないような)
人間はそんな自分の身の回りに起こる事細かな事象を人間レベルで区別するために数字よりわかりやすい名前をつけます。

また比喩、暗喩表現も人間レベルに直したものです。
これは熱燗の話に近いものですね。温度を人肌などに例えることで理解しやすくしています。

もうひとつ日本には特別にもう一つ物事の人間レベルで言葉化をできるものが存在します。
オノマトペ。擬音語(擬声語、擬態語)ですね。でも、これは数値を人間レベルに直すというよりは、大きい枠組みを人間レベルに細分化するものと捉えたほうがいい気がします。
たとえば一口にやわらかさを表現するオノマトペを探しても、ふわふわ、ぷにぷに、ふかふか、もふもふ、などさまざまな表現が可能です。でもその表現ひとつひとつに人間の感覚に訴えかけられるレベルの区別が存在します。ふわふわクッション、ふかふか毛布、ぷにぷに人肌のような。

そのような細かな素材感、テクスチャをオノマトペは表現でき、伝えることができる。


この3つの名づけるという行為、ここがデザインにとって重要ではないかと最近思うところで。人間が理解しにくい大きいもの、見づらい小さいものを、人間レベルにわかりやすいように翻訳する。
さて、どのように翻訳するのか。
それこそまさにデザイン。


この記事を書いているときちょうどいい記事を見つけました。
■ となりのインテリア テトリスのようなキッチンタイマー。 amadana(アマダナ) キッチンタイマー
砂時計も時間の翻訳ですが、これはテトリスを用いてタイムアップに重きを置いたような時間の翻訳ですね。テトリスを知っている人のみに対象は限定されてしまうでしょうが、そのような前例が存在するのであれば、一瞬で人間レベルの時間を計測することができる見事な翻訳だと思います。
ブロック(時)が降り積もっていくという演出もタイマーとしての機能と重なって面白いニュアンスを生み出していますね。


アナログ時計で見えていたものがデジタル時計で見えなくなる、というのはよく聞くお話で。情報化社会という実に数値的な社会に、なんとか人間レベルに翻訳しようとがんばっているのが今のデザインというものなのかと思うしだいなのです。

スレッド:デザイン|ジャンル:学問・文化・芸術
コラム12.25(Tue)04:40コメント(0)トラックバック(0)Top↑
dot3 dot5